家族 生き方

父親の人生はアーティストのようだったのか?

 

こんにちはwashioです。

前回の記事から少しタイトルが違ってきましたが、書いている私の心境も変わってきます。

亡き父を哀れんで書いていると、過去のいろいろな出来事を思い出してきて、腹立たしく感じてくる事もあります。

父をアーティストだったと持ち上げたり、軽蔑する男と落としてみたり。

自分の人生をすっかり母に託していた人が、その相手を失って頼る先がすっかり私にかぶってきました。

自分の親のことなので、親をみることはいとわないのですが、なかなかアーティストな人なので振り回されることもありました。

 

父親の人生はアーティストのようだったのか?(17回忌を過ぎて)

幼い頃から絵を描くことが好きだったという父。

終戦は疎開先で迎えました。

終戦後東京に帰るとろくに食べるものもなく、幼い弟と祖母との暮らしで、ずいぶんつらい経験もしたそうです。

当時父は実の父親はもういなくて、複雑な家庭環境だったようです。

そんな話を母から聞かされていた私は、母が亡くなってからこそ、頑張って父と暮らしていこうと決心しました。

 

父とむすこ

 

母が亡くなってから私は一度目の結婚をしました。

難しい父の性格を考えて、同居はせずに近くに住みました。

近くにいても父のことは心配で、頻繁に顔をだしたり買い物に連れ出したりしていました。

それでも父はその日の調子で気持ちがかなり上下していましたが、大切な伴侶を亡くしたばかりで仕方がないなと思いました。

近くにいるとはいえ一人になると朝から酒ばかり飲んでいるような日々で、酒が切れると仕事中にも電話をしてきて酒を買ってこい・・・

 

それも寂しさを紛らわすにのには仕方がないと思い、言う通りにしてきました。

 

自殺未遂

 

そんなある日、いつものようにお店でお客様たちと楽しく話しながら仕事をしていると、伯母からの電話。

「今、救急病院にいるから急いで来て、お父さんが手首切った」と、

受話器から聞こえた叔母の言葉の意味が一瞬何を言っているのかわからなく、ただ自分の心臓の音が全身に響いて、これは現実に起きていることなんだと実感しました。

 

車を飛ばして病院へ到着、受付で問い合わせると外科病棟にいると言われました。

エレベーターを待つのももどかしく階段を駆け上り、外科病棟に走りました。

病室の入り口から中を見るとベッドの周りにカーテンが引かれていて、看護師さんが処置をしているようでした。

私と目があった看護婦さんは「ご家族の方ですか?」と

私は小さくうなずき、ベッドの周りにひかれていたカーテンから中をのぞくと、真っ青な顔をした父がいた。

細い腕に刺さった点滴の針が痛々しく、いったいどういう経緯でこんなことになったんだろう?と思いました。

 

私を見つけた父は一瞬困ったような顔をしたが「仕事はどうした!」ととがめるような口調で言った。

偉そうに何を言っているんだと腹が立ちましたが、病院に運ばれてきた理由が自殺未遂なだけに、柔らかい調子で「大丈夫かい?」と精いっぱい優しい口調で言いました。

すると父は「しくじったな、まだ生きているとは」

無理に強気な口調でそう言っている父を見て、情けなくて涙が出てきました。

 

父の性格は良く知っています。

気が弱くて、家族の前でした大きなことが言えないし、会社を辞めたのもガンの手術でしばらく休んでいて、職場に復帰した時も自分で思っていたよりも、部下や同僚たちに大事にしてもらえなかったのが悔しくて、いじけて会社に行きたくなくて家出までしたこと。

母も私も実はわかっていました。

今回も本気で死のうと思ったわけではないことも。

 

でも、父は寂しかったんです。

もっと自分を見てほしかったんです。

 

私は実の息子だから、性格も似ているので良くわかります。

 

でも本当はそんなことをしていると親戚にも段々厄介がられてくるって、本人はちっともわかっていない。

しかし今回の件で、近くに住んでいるとはいえ、別に暮らしていることは無理だなと感じました。

 

離婚

 

妻とは何回となく話し合いをしましたが、難しい性格の父とは絶対に同居したくないという事で、私だけで父と一緒に暮らすことになりました。

そんな状態がしばらく続くと落ち込んだ時の父親は、私たちが別居しているのは自分のせいだと泣いたり暴れたりが始まります。

当時はあまり話題にならなかったのでわからなかったのですが、今思うと完全なうつ病だったと思います。

このままは同じことの繰り返しになりかねないので、妻と話し合いましたが全く折り合いがつかず、結局 離婚することになりました。

 

どんなに面倒くさい父親でも、実の父親です。

私がいなければこの人は生きていけないと思い覚悟を決めました。

 

父との生活

 

気分の下がっっている時期は、昼間はほとんど寝ているばかりで、夕方ごろに起き出して酒を飲み始めます。

ふつうならそれでいいのですが、そのまま朝まで飲み続けています。

私が飲みすぎだと言ったところでまったく聞く耳は持ちません。

私も仕事があるものですから時間になれば寝てしまいます。そして父は朝になると部屋で酔いつぶれて寝ています。

息子としてはそんな父親は見たくないのですが、無理やりお酒を取り上げて暴れるほうがもっと面倒くさいので、ついそのままにしてしましました。

本当にその頃は、朝の新聞のお悔やみ欄を見ては父より若い人が亡くなっていると、なんで私の父親はまだ生きているんだ。などと不謹慎な気持ちになることもありました。

 

気分の上がっている時期は、掃除や洗濯をしてくれて、良く絵もかいていました。

「お猿のかごや」という童謡の歌詞に合わせた絵を良く描いていたのを覚えています。

自分の父親ながら、それは上手に描けていて、沢山の猿たちが色々な表情でいくつものかごを担いでいるところを描いています。

今思うと、父自身が暗い現実を忘れたくて、そんな童話の歌詞に合わせた絵を描いていたのかもしれません。

 

一番つらい父との生活を書いていると、こんなことブログに書いてもいいのだろうかと悩んでしまいます。

しかし自分も母の亡くなった年齢を越え、少しずつ残された時間が迫ってきます。

まだまだ現役という気持ちは当然ありますが、確実に時は過ぎていきます。

記録として書くのもいいかと執筆しています。

父との話。

今日はこの辺で終了です。

今回はここまで読んでいただいてありがとうございます。

父との話は次回で終わりたいと思います。

よろしくお願いします。

washio

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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