家族 生き方 画家として

父親こそアーティストだったのかもしれない(17回忌を過ぎて)

こんにちはwashioです。

今回は私事で恐縮ですが、私が絵を描くようになったのは父親の影響がとても大きいのです。

今回はそんな独り言のような記事なので、興味のない人はスルーしてください。

(話が長くなるようなので2回に分けて書かせていただきます)

父親こそアーティストだったのかもしれない(17回忌を過ぎて)

 

サイト管理人の経歴にも少し書きましたが、わたしは一人っ子で、父親は戦前の生まれです。

東京生まれ東京育ちの江戸っ子でした。

わけあって、ここ軽井沢の地に暮らし始めましたが、幼い頃からずいぶん苦労したようです。

太平洋戦争中には、新潟に疎開をした経験もあったと聞かされました。

父の実家はあまり豊かではなかったようで、父本人はあまり語りたがりませんでしたが、とても人には言えないようなこともして生きてきたみたいです。

その当時の日本人は多かれ少なかれ大変な状況で生きてきたんですね。

母と結婚して数年後、軽井沢に住むようになってからもずいぶん苦労したみたいでした。

私が中学生の頃に父は大きな手術をして、それがきっかけで仕事を辞めました。

病気をして仕事をやめたのは仕方がなかったのですが、病気がすっかり治って元気になってからも、就職することはありませんでした。

 

 

家出

 

そしてある時、父は身の回りの物と、画材をもって姿を消してしまいました。

当時私は高校1年の16歳。

多感な年ごろの私に対して、母親もすごく心配してくれました。

ある夜は、親族会議で「警察に捜索願を出したほうが良いのではないか」などと深刻な話をしていました。

私も自分の部屋から大人たちの話に聞き耳を立てて、いったい自分のこれからの人生はどうなってしまうのだろうか、と不安に駆られていました。

 

一家がそんな大変な時なのに、私に不自由をさせたくないという母のやさしさに付け込んで、私は無理やり母にバイクを買わせて悪さをしていました。

ある土曜日の午後、せっせとバイクの改造に励んでいた、時背後から

「バイク買ったのか」

間の抜けたような父親の声。

何事もなかったような顔をして、ちゃっかり帰ってきたんです。

私は複雑な気持ちで、自分の部屋に閉じこもってしまいました。

母親が帰ってきたらどんな修羅場になるんだろうと、とんでもない光景を想像してドキドキしていました。

夕方になり仕事から帰ってきた母。

リビングには何事もなかったようにビールを飲んでいる父。

私は息を殺して聞き耳を立てていると、

リビングの扉を開けた母が言った言葉は、

 

「あっ、お父さん、お帰りー。帰ってたんだね。」・・・

 

その日の夕食時には全く何事もなかったように、テレビを見ながらまるで普通に出かけた旅行のみやげ話をするように語る父。

私は腹が立つような、ほっとしたような、複雑な心境だったのを覚えています。

 

父は絵を描くのが本当に好きだったようで、家を出て行く時もスケッチブックと鉛筆は欠かさなかったんですね。

ついでに家にあった現金も、すっかり持って行ったそうです。

そんな父を私は当時軽蔑していましたし、そんな父の絵を描くということも嫌いでした。

しかし今考えてみると、スケッチブックと鉛筆をもってふらっと家族にも言わず消えた父。

画家になりたいと言う置手紙だけを残していなくなった父は、映画で見るロマンチックな画家のようです。

(フーテンの寅さんとも言いますが)

 

お金が尽きたら帰ってきて、スケッチブックに描いた絵を母に見せながら、旅先のできごとを語る父。

 

幼い頃からずっと苦労を重ねてきた父に、今となってはむしろ可哀想な人だったと思っています。

 

そんなことがありましたが高校も3年間無事に過ごせました。

そして高校を卒業したらこんな父親のいる家から早く出ていきたい。

そんな思いで父親の絵が好きだという事を利用して、「絵の勉強をしたいので東京に出してほしい」と頼みました。

自分の好きな絵の勉強をしたい、という息子の言葉にまんまと作戦は成功し、嬉しそうに東京行きを許してくれた父をだまして、絵の専門学校に進学しました。

 

東京に出た私は、好き勝手に遊んでいて、進学させてもらった絵の学校も勝手に退学し、バイトで貯めたお金で美容学校を卒業しました。

 

 

 

両親の病気と母の死

 

美容師として都内で働き始めた数年後のことです。

母からの電話で、父の癌が見つかり手術することになったので相談したいと。

 

一人っ子の私は、それを機会に東京を引き払うことにしました。

父の手術も無事に終わった頃、父親から話があると・・・

母が多発性骨髄腫という病気にかかり、あまり良い状態ではないことを告げられました。

両親ともに、一般に言われる重たい病気にかかり、その時もいったい自分の人生はどうなるんだろうかと不安になりました。

 

そしてその翌年に、母が他界しました。

私が27歳の年でした。

妻の死に落ち込み、呑んだくれた父は母の火葬にも行くこともしませんでした。

父との暮らしで、これから先いったい何が待っているのか不吉な予感しかしませんでした。

 

「父親こそアーティストだったのかもしれない (17回忌を過ぎて)」

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

自分の頭を整理して、次回は父との暮らし編です。

自分の頭の中にある断片的な記憶を整理するための記事です。

ここまで読んで時間の無駄になった方はごめんなさい。

でも次回のほうが父のアーチストぶり、発揮します・・・

washio

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