サイト管理人washioの経歴

 

こんにちはwashioです。

今は美容師と画家の二束の草鞋で暮らしています。

今回の人生も半分以上使ってしまいました。

残っているほうが少なくなってしまったと言うことをようやく気が付いたので、残りの人生を後悔の無いように過ごすため、幼いことからの夢だった画家として生きて行けたらと思いました。

そして今は少ないながらも絵のお仕事も頂けきながら、美容室をやっています。

 

幼児期

 

日本の高度経済成長の真っ只中に長野県軽井沢町に一人っ子として生まれました。

父は東京の人だったので母が嫁に行き、里帰り出産で軽井沢にもどって来て、隣町の小諸市にある「小諸厚生病院」当時は「佐久病院分院」と呼ばれていた病院で早朝に生まれました。

退院すると間もなく嫁ぎ先に戻り、「渡る世間は鬼ばかり」のような生活を送っていたようです。

私が3才になる頃に、姑(僕にとってはおばあちゃん)の冷たい仕打ちにとうとう母はキレてしまい、夕食の買い物に行くふりをして、私をおぶったままで上野駅から列車に乗り、長野県軽井沢町の実家まで帰ってしまったのです。

夕暮れ時の薄暗い中、母の実家で伯母がふと玄関先を見ると、幼い私を背負い泣きながら立っていたそうです。母は「嫁ぎ先には絶対に帰らない」という覚悟があり、結局父親が軽井沢に来て住むことになりました。

そんなことで、私の幼児期はかなり貧しく暮らしていた記憶があります。小学校に上がり両親の頑張りも実り、ようやく小さな家も建ち、平凡で穏やかな生活をした少年時代でした。

その頃の日本は、「高度成長期」と呼ばれ、これから世の中はドンドン良くなっていくだろうと幼い子供の私でも感じるほどで、はやく大人になって楽しい生活を送りたいと思っていました。

絵を描く事は幼い頃から好きで、両親とも働きに出ていたので、広告の裏と鉛筆が私の友達でした。家に帰っても誰もいないため、当時で言う越境通学で学校が終わると伯母へ帰り、父親の仕事が終わって迎えに来てくれるまで待っている生活でした。叔母の家には年上のいとこが居て、いろいろ面倒を見てくれましたが、いとこが学校から帰ってくるまで、旧軽井沢の別荘地や山の中を一人で歩くのが好きで、鉛筆と広告をもって絵を描きに出かけたものでした。運動神経は鈍く、自転車に乗れたのも小学校6年になってからでした。

 

思春期

 

中学生になると、絵の好きな仲間と盛んにマンガを描き、将来は漫画家になりたいと思ってい

ました。ちょうど「明日のジョー」が流行った頃でした。

運動神経はあまり良くありませんでしたが、成長が他の同年代の子より早く身体が大きかったために鈍さをカバーしていたようです。

本当は家で絵を描いているのが好きでしたが、「外で元気よく遊びなさい。」と親に言われ、屋外で友達と「良い息子」を演じた時代でした。

高校生になると悪い仲間ができ、お約束の「たばこ」「酒」「オートバイ」「ロックバンド」と言う当時では不良の必修科目は、満点な生活をして楽しく過ごしていました。

 

 

映画の製作、「三平一人旅」の話

高校1年生の頃、将来は映画監督になりたいと言っていた友人が、ある時自分達で8ミリ映画を創りたいと私を誘い、今考えれば稚拙な内容でしたが、かなり本気で1年間かけて8ミリ映画の製作に励みました。

ここでお話しするのも恥ずかしいのですが、「三平一人旅」という題名の青春ラブストーリーでした。

私が主人公だったのですが、「三平」という青年が「ユキ子」と言う恋人に1年間旅をして、男を磨いてくるので待っていてほしいと言い残し旅に出ます。

そして1年間全国を巡っていろいろな人との人情に触れ、1回り大きくなった三平が故郷に帰ると、そこにはユキ子と親友が結婚の約束をして、幸せに過ごしているところを見てしまいます。

大切なユキ子と、無二の親友の幸せと祈って誰にも会うこともなくひっそりと、再び旅に出てしまうと言うありがちなストーリーでしたが、当時の高校生の8ミリで作る映画とは、現代のスマホでサクッと動画を作れる時代とは違って、時間もお金も労力も大変に必要なものでした。

本当に1年近い期間を費やして撮影し、その映像の中には「春、新緑の芽吹き」「夏の軽井沢の抜けるような青空」「秋の真っ赤な紅葉の紅葉」「真っ白な冬の雪景色」と当時の私たちには涙が出るほどの汗と努力の結晶のような作品でした。

8ミリフィルムの撮影でしたので、もちろん今のビデオのような音声が入りません。撮影がすべて終了すると、出演者がそろって友人の家でアフレコを行います。

撮影の時も時間を作ったり改造したオートバイで、撮影現場まで荷物を運んで行くのは大変でしたが、演技をしたりすることは楽しかったのでそれなりに充実していましたが、アフレコをするときは映写機で映像を白い壁に移しながら、暗い部屋で何度も何度もNGを出してはセリフを録音するため、青春真っただ中の16歳には忍耐が必要でした。

当時映画を作り始めたころは、珍しさも手伝って沢山の仲間が協力してくれましたが、時間を重ねるごとに協力者も減っていき、アフレコの頃にはほんのわずかなメンバーでおこなっていたように記憶しています。

その「三平一人旅」。

今では誰が保管しているのかもわかりませんが、いつの日かその映像をまた観たいと思っています。

青年期

 

高校を卒業し、東京、お茶の水にある「東京デザイナー学院」に入学したのは、「サーファー

ブーム」で街にはハマトラの女の子がたくさん歩いていて、男子は日焼けして黒くないとダメ、みたいな時代。

代々木公園には竹の子族が集合して、毎週末踊りまくりで、こんな私をこの東京というタイト会に放ったことが、間違いだったのではと思います。

地方から東京へ進学して来る若者の転落のお手本のような毎日で、1年間学校へはほとんど出席せずに昼夜逆転の生活を送っていました。結局東京デザイナー学院を退学し、これでは田舎に帰れないとアルバイトをして暮らしていました。

当時はディスコの全盛期で私たち田舎者は、新宿歌舞伎町がディスコの聖地とし、毎日のように通っていました。そんな暮らしをしていれば、絵やデザインを目指すものにとっての毎日の訓練にも似た勉学がまともにできるはずがありません。それに、ディスコ仲間に美容師がて、こんなクリエイティブな職業はない。なんて乗せられてアルバイトで貯めたお金をすっかり使い、当時渋谷にあった「東京高等美容学院」に入学。

 

 

 

 

色々な反省も込めて、毎日まじめな美容学校生活を送り比較的優秀な成績で卒業して、都内の美容室に勤務しました。そしてその時初めて両親に東京デザイナー学院をやめ美容学校へ入り、美容師の道を志しているということを話しました。

もちろん両親はびっくりしましたが、私の両親はとても優しくて自分でアルバイトして入学したなら、自分で決めて目指す道なら。

と美容師になることを許してくれました。

なんて素敵な両親と、ダメダメ息子なんでしょう。

就職先の美容室はオーナーが「東京都美容講師会」の先生で、高い技術力を持った方で、容赦ない厳しい師匠でしたのでその方のおかげで精神力、技術力ともにかなり鍛えられました。

そのサロンに数年勤務していると、美容業界は広いようで狭い業界でもあり、頑張って働いていると、新店のスタッフや責任者としての声がかかります。

私もあるサロンのチーフとして声がかかり、4年間務めたサロンを退社。恩義を感じていたそのサロンを退社する当日は始発で出社し、ほかのスタッフが来る前にお店全体を年末の大掃除並みにきれいにした思い出が懐かしいです。

 

両親の深刻な病気で長野に戻る

 

長野に戻ったきっかけは、両親の深刻な病気でした。

あるに母親から電話で「実はお父さん胃ガンになってね、手術が決まればおまえに手伝ってほ

しい。」

息子としてはかなりショックでしたし、サロンの責任ある立場で長期休暇がとれるのか。と正

直困っていました。

その数週間後、叔父から電話があり「おまえ。、お母さんがガンにかかっているのは知ってい

るのか。」

 

てっきり叔父は、父と母の話を取り違えているのかと思いましたが、よく聞いてみると母は当時勤めていた農協の検診で「多発性骨髄腫」と言う癌にかかっているそうで、母親自身はそのことを知らされていないと言うこと。また父親の胃がんということも父親自身は知らないということで、叔父が心配して私へ連絡してくれたのでした。

そうなるとサロンでの長期休暇がとれるか、なんてことは言っている場合ではなく、上司に

相談し父親のガンの手術は休暇を頂くことで対処し、その後サロンの引継ぎなどをして退社することになりました。

結局父親の胃がんの手術を8月に無事終了しましたが、母親は癌細胞が全身に回り、私のことも息子だとわからない時もあり、翌年2月帰らぬ人となりました。

父親の胃がんの手術があり、それと並行して母親の抗ガン治療、小諸厚生病院の3階内科と4回外科を行ったり来たりする毎日でした。

その時はこの世にこんな不幸な話があるのかと自分の運命を呪っていました。

しかし、その後に待ち受けている波乱万丈は全く予想していませんでした。

 

独立開業~廃業

 

29歳で念願の美容室を開業。

当時の男性美容師は、20代で開業しましょう30代に入ったらだんだん経営に回りましょうなんて都合の良いことを言われていました。そんなこともあり自分で開業することを念頭にいつも仕事をしていたので、念願の20代での開業ができました。

その頃はバブル経済も絶頂期で銀行で開業資金の話をすると500万円くらいはその場でOK、担当者は「どうせなら1000万円借りとけば。」みたいな感じ。

そんな波に乗って開業し商店街の遊び人達と、毎夜毎夜あそび歩く生活が続いていましたが、サロンの経営は何となく時代の流れに乗って、大きな利益は出せないながらも毎晩の飲み代には事欠かない生活でした。

そんな時に好事魔多しとはよく言ったものです。

暴力団と関係のある親を持った女性と付き合い、その親に知れ、けじめとしてお金と、せっか

く開業したサロン2年で廃業する羽目になりました。

開業時の借金もまだ残っており、次の仕事など考える余地もなく、稼ぐために隣町のパチンコ店にアルバイト店員として働きにいきました。

そこのパチンコ店の店員さんたちは、バブル時に何億円ものお金を動かしてその後、自己破産し

た、とか埼玉でホストをやっていたけど年齢的に無理が来て、長野に流れてきた。とか、なぜか

どうらく息子で、18歳の若さでベンツのsクラスに乗っていたりとか。いろいろな人生を送っ

て来た方たちばかりで、「美容師という手に職のある人なら、必ず復活できる。こんなパチンコ店でくすぶっていてはいけないよ」と励ましていただきその時の私はとても救われました。

何とか復活

ある日アルバイト先のパチンコ店で働いていると、美容室をやっていたころにないっていた町の青年グループのメンバーの先輩が訪ねてきました。

私が美容室を廃業してパチンコ店で働いていることを知って、その先輩の会社で美容部門を持ちたいので手伝ってほしいと誘ってくれました。

建設業をしていた先輩からの誘いに一抹の不安を抱えながらありがたくその美容部門の責任者として働き始めました。

それから間もなくして、その会社がバブルのあおりを受け倒産し、またもや失業してしまいます。しかし捨てる神あれば拾う神あり、業者間のつながりで、その後美容師として実力があるならお店を任せたいという方にめぐり合い、人材不足で閉じていた美容室で店長として7年間勤め、再び独立開業しました。

まじめに、そしてまじめに

再び天から授かった自分の城。

新たに歩み始めるヘアサロン。

今度こそは、大事に大事に育てて、お客様から愛されるお店にしようと、毎日毎日、身を粉にして働きました。

お客様も、少しずつ増えて行き、売り上げもちょっとづつ上がっていきました。

お客様の誕生日には、自分で描いた絵を印刷して、バースデーカードを送ったり

その後

 

色々な人生がありますが、私のシナリオはこれからが本番と思い美容師と並行しながら美術家

の道を邁進していきます。

残された寿命の中で後世に残る作品を残すことが私に与えられた使命と感じ、生きています。

このwashioの歴史。

これからのストーリーも綴っていくつもりですので、またお越しください。

washio

 

 

 

 

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