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美容室の店長として働いた7年間に起きた波乱な出来事
何とか復活した後、美容室の店長として雇われたお店。
前半の経歴ではなんとなく書いていましたが、そんな7年間の間にも、washioのことなので色々ありました。
今になってみれば面白かったので、自分の経歴の続きとして書き残しておこうと思うのでよかったら読んでみてください。
雇われ店長として、誘われたきっかけ
建設会社のイメージアップのため、一部門として美容室を持った会社が倒産し、美容部門の責任者だった私は、その残務整理に追われている時に、以前自分で美容室をしていた頃のディーラーさんから声がかかった。
「すぐに営業できる美容室があるんだけどやりませんか」
とてもきれいなオシャレな店舗でしたが、資金が全くなかったので断ると
「お金は、何とかする。あなたの技術を買いたい」
なんてうれしいことを言ってくれた。
結局テナントのオーナーさんと、誘ってくれた方が私を歩合で雇う。
みたいな感じになり話がトントン拍子に進んで行きました。
お店はとてもオシャレな作り。
アシスタントもそちらで手配してくれる。
なんだか至れり尽くせりの誘いで僕は有頂天になっていた
ヘアサロンスタート
何から何まで良いしてもらい、自分の必要だという美容機材も、私を誘ってくれた業者の方がどんどん用意してくれた。
テナントのオーナーさんも私をすごく持ち上げてくれた。
見た目も美形だし、スタイルもいい。
美容のセンスも抜群だしおしゃべりもすごく上手だしね。
そんな誉め言葉に益々有頂天になっていく。
私は今後の未来はバラ色に染まっていく気がした。
そんなに持ち上げられた後、どれだけ落とされるかも知らずに。
営業開始
保健所の手続きも急に決まった美容室開業のため、開設許可書をとるのはなかなか難しいことなのだが、今回で保健所への開設届け手続きは、短い期間の3回目になるので、保健所側と少しもめることはあったものの何とかオープンの日には間に合わせることが出来た。
いよいよオープン前日にビルのオーナーが、自分の知り合いのお客様の予約を持ってきた。
とても親切にそうそう繁盛するようにと考えてくれたようだったが、美容室での予約業務のことそ全く知らない方のようで、
「○○さん○○時にカットね」
「○○さん○○時にパーマね」
その日のスケジュールも知らないまま、どんどん予約を誘っている様子。
実際にかなりの予約が重なり、恐ろしいことになりそう。
慌ててその旨を話し、とりあえず予約の誘いをストップしてもらったが、そこまでに受けた予約は顔を立てるためにやってほしいとのことでした。
いよいよオープンの朝になりお客様が続々が来店するが、実際に何人かのお客様は長い時間をお待ちいただくようになってしまった。
結局その日の営業は朝10時からスタートして、深夜の25時までかかり翌日のことを考えるとめまいがしてくる。
翌日には朝の用意をしていると、早速ビルのオーナーさんが来て、自分が紹介したお客様がかなり待たされて、自分の顔をつぶされたとご立腹。
そんなこと言われても勝手に予約を取って、美容室に投げっぱなしなのはそっちだろ。
と頭の中の自分は叫んでいたが、そこはビルのオーナーさんだし、良かれと思ってしてくれたこと。
美容室の予約と言う特性。
カット・パーマ・カラーなど予約をいただいても、お客様と話す中でメニューが変わることもあるという事や、それによって時間が延びることもあるという事。
予約を頂くのはありがたいが、約束する前に美容室の予約状態を確認していただくこと。
などを話してわかってもらい、その時は納得してもらえたと思ったが、その後何かあるだろうという予感はしていた。
細かい取り決めがないままイケイケで始めた代償
実際に営業が始まってみると、いくつかの最初の話しとの食い違いや本音も見えてきた。
オープン当日の予約の事件を引きずって出てくる意見。
予約しようとするお客様を失うのはおかしい。
売上のチャンスなのに一人でも取りこぼしがあるのはダメだ。
どれも現場の状況をを考えてくれない意見。
私もその時に意見を出し尽くせばよかったのだが、お店の店長として体一つで迎えられ、金銭的なものは一切用意しなかったという引け目を感じていたので、なんとなく話を合わせてしまった。
やはり当たり前のようだが、金儲けのために集まった人達で、少しでも早く利益が欲しいという感じだった。
スタートしてよくよく聞いてみると、私を誘ってくれたディーラーさんが事実上の出資、経営者。
そしてビルのオーナーさんは家賃契約ではなく、美容室の売上の15%を利用料として受け取る。
そして私は毎月の給料と言う取り決めになっていた。
自分の給料の方は事前に話し合っていたので納得はしていたが、ビルのオーナーやディーラーは当然売り上げが上がらなければ納得できない。
当たり前でしょね~。
私としては、
心の声「美容室は物販と違って、大勢お客様が来ていっぱい買ってくれればいいというのは違う。
お客様としっかり話して気持ちよかえって板だっことが、次回のご来店につながり、しいては安定した売り上げが上げられるんだー。」と
でも結局ビルのオーナーさんとディーラーさんの意見で色々私にとって苦しいことが決まって行きました。
細かな条件最初に決めるべきだった
ビルのオーナーさんとは顔が広く沢山のお客様を呼べるらしく、売り上げの為にももっと沢山お客様をこなさせたい。
もちろんディーラーさんの方もそれで売り上げが上がるならと乗り気でした。
ここで私はいままでやって来たやり方を絶対に曲げたくなかったので、おひとりにかかる施術の時間を短縮は絶対にしない。
そこは守り抜くも、
それでは営業している時間を延ばす方向で。
と
朝は10時開店でしたが、終了時間は無制限と言う無謀な方向に決まってしまう。
そして、お店の休みはとりあえず3カ月は無しと言う事で。
なんだかやばいことになって来た。
確かに売り上げは上がるし、投資した側はううれしいけど、現場の自分はたまったもんじゃないが、
ある程度回収出来たら、美容室は私の手に渡るという口約束で、それをモチベーションに動く。
まあ当時は子供と言うか、言いたいことも言えない性格と言うか、人がいいと言うか。
何とも今思い返せばイライラする自分の性格でした。
営業も金曜日の夜になると、深夜の1時ころまでお客様も居たし、少し照明が暗めのお店で、私はと言うと毎日スーツで仕事をするという、なんだか違うお店の感じでした。
受付は3メートルあるバーカウンターでしたし、座るところもありヘアをやらない時もお客様がだれかれとなくお話しに訪れていました。
なんとなくムードのあるサロンて感じで、ちょっと見良いのですがやる方としては全く気が抜けるときも無く、毎日くたくたになっていた。
そして通勤は自宅まで悔いるまで1時間かかっていて、カラダも心もボロボロになって行きました。
そんなふうでしたので、誰かしかお店にいるのに、売り上げは上がらない状態。
それはそうです、ビルのオーナーさんはカッコつけたホストみたいな美容師に、女性が群がっていればお金になると思ってたみただった。
しかし施術もしないお客が何人いても一銭にもならないし。
中心の人物が抜ける
そうしていくうちに、事実上の経営者のディーラーさんは、ちっともお金にならないので、手を引きたいと言ってきた。
手を引きたいと言っても、ただ美容室をやめると言うのは無責任だし、ビル側もそうはいかないって感じだった。
結局私がテナントとして借り、毎月家賃そ払うというかたちに収まった。
そこからは、こっちのやり方で自由にやれるので内容はずいぶん変えました。
ビル側もう家賃を入れてもらえばそれでいい手事になったし、実質経営者のディーラーが、美容室として機材を提供していたので、それを私が買い取り分割で返すというかたちで決着がついた。
そんなこんなでまた自営で美容室をすることになりました。
まあ複雑な経緯があったけれど、資金もあまりかけずに自分の美容室が手に入ったという事で安心していました。
仕事とプライベート
生きているといろいろな障害がある
父親とは世間的には仲の良い風を演じていたし、父は私のことを頼っていたが、私としてはとても尊敬できたり愛すべき父親と言う感じではなかった。
父の生い立ちは複雑らしくて、母親が生きている頃に聞いた話だと私が祖父としていた人は、父の実の親ではなく父の本当の親のことは良くわからなかったらしい。
祖母が父を連れ子として再婚した相手が私が祖父だと思っていた人で、その時の環境もあまりよろしくなく、父は小学校すら卒業していなかったという事だった。
その辺のことを父はかなりコンプレックスに思っていて、自分の子供のころの話しは全くと言っていいほどしない人だった。
父親の自殺未遂
ある日のこと。
いつものように美容室で忙しく接客をしているときに本家からの電話。
えっ。
なんで本家の人がお店に電話かけてくるの???
そう思いながら電話に出ると。
「お父さんが救急車で運ばれた。自分で手首を切ったらしい」
?????
何を言っているのかわからない。
「お店も忙しいと思うけれど、お前は一人息子なんだから病院へ急いで行け」
そんな会話をして電話を切り、我に帰ると一体どういうことなんだ。
お店もあるのにどうすればいいんだ。
とりあえず、今施術中のお客様を急いでやりながら、ご来店していないお客様に急遽電話をし翌週にまわってもらう。
その当時のスタッフも一生懸命対処してくれて、なんとか車に乗り病院へ向かう。
病院の駐車場に車を慌てて停め、病棟へ向かう。
指示された病室に向かうとそこは相部屋だった。
(相部屋ということは命に別状はないんだな)
そう思い少しだけホッとしたが、
ホッとした後、オヤジは一体何をしているんだ!と無性に腹が立ってきた。
病室に入ると青白い顔をした父親がベットに横たわっていて、私の妻がイライラした顔をしてこちらを向く。
私の顔を見た父親は
「まあそういうわけだ」と
(何がそういうわけだだよ) むかついてきたけれど、そこで怒ってまた何をしでかすかわからないので、
「大丈夫か」と一応優しい息子を装ってみた。
担当した医師の話では手首の切り傷は決して浅くはなく、太い血管が切れていたけれど安静にしていれば問題はないと。
その後心療内科にも診察を受けて、私も心療内科の医師と話をした。
医師の話だと、1人の生活がつまらなく世間に相手にしてもらえない状態。
悲観的に捉えてというより、自分に目を向けて欲しいというのが大きいと思いますと医師は言う。
私も長男としてこのままにしておくわけにはいかず、その日から実家に行き、自殺未遂を行った後片付けをして実家に泊まった。
親戚には「お父さんこのままじゃまたやるから同居しなさい」と言われる。
妻に相談すると
「そんな人と同居なんて絶対にできない」
「するなら庭に離れを一軒立てろ」
そう言われてしまったが、妻からすれば無理もない話だと思う。
父はかなり偏った性格をしていて、気が弱いくせに自分より目下のものには無理難題を言う。
まあ、育った環境がかなり特殊な環境だから、そこで歪んでしまったんだな。
可哀想な人だ。
と思ってもう少し大事にしてあげるかと考えた。
父との同居
退院の日から私と父親との2人の生活が始まった。
妻はとても一緒に暮らす感じではないので、当時まだ幼い子供がいたので妻がそちらをみて、私が父を見る感じになった。
父親は嫁の態度が不満らしかったが、そこは無視。
当の父親本人は気楽なもので、テレビをみてはよく喋り酒もよく飲んでいた。
やっぱり寂しかったんだなと思いつつ、もっと協調性を持たなければ無理だろとも思った。
離婚
そんな生活が半年ほど続き、私の親戚も妻に連絡を取り同居を促していたようだ。
私もこんな生活をいつまでも続けることもできないので、
同居をしてくれるか、それができなかったら離婚という選択肢もある。
そう話し合い、結局離婚という選択になった。
周りは驚いていたが、私としてはむしろ色々なことを気にすることなくやっていけると思った。
ただ気掛かりなのは、なんの責任もない幼い子供のこと。
その年の春には小学校入学の年齢だった。
将来のことは全く考えられず、こんな経験をすると突然起こる出来事に、将来のことを考えるなんて意味があるのか。
そう思った。
でもこれからまだ嵐のような出来事が待っていた。
次回へ続きます。