目次
〜『はてしない物語』と記憶の旅〜
はじめに ― 森の記憶の、さらに奥へ
前回の投稿では、子供の頃に軽井沢で出会った不思議な風景や空の話を通して、
私の幻想世界の原点がすでに幼い日に始まっていたのだという気づきを綴りました。
その続きを書くようにして、私は今、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』を読んでいます。
ゆっくりとしたペースですが、ページをめくるたびに、不思議と記憶の中の扉がひとつずつ開いていくようです。
バスチアン少年と、自分の影のような記憶
物語の主人公、バスチアン少年は、少し太っていて、新しい環境にうまく馴染めず、
学校にも居場所がない少年です。
そんな彼はある日、現実から逃げるようにして一冊の本を手に取り、空想の世界に旅立ちます。
読みながら、私は胸が少し苦しくなりました。
子供の頃の自分が、そこにいるような気がしたのです。
私もまた、ひとりっ子で、静かに、まわりに気をつかいながら生きていました。
本当は学校に行きたくない日もありましたが、
それを言えば家族に心配をかけてしまう。
だから何も言わず、ただ、空想の中へと心を逃がしていました。
いちばんの「心の居場所」だった母
特に、母のことを思い出します。
私にとって母は、ただの家族というより、
まるで恋人のように心を通わせていた存在でした。
どこかへ出かける時も、ふたりだけで手をつないで。
母の声や仕草を、私は全身で覚えています。
けれどその母も、私が二十代の頃、がんで亡くなりました。
検診で病気が見つかってから、たった半年。
あまりにも早く、別れはやってきました。
大人になった今でも、あの空白のような時間を、時折ふと胸の奥で感じることがあります。
そしてふと思うのです。
私が幻想世界に惹かれているのは、あの母との時間を、
形を変えて追い求めているからなのかもしれないと。
現実から心を旅立たせるということ
『はてしない物語』を読むバスチアンは、本の中で空想の世界を生きるうち、
だんだんと”現実”を失っていきます。
けれどそれは、逃げているだけではなく、
”本当の自分”に出会い直すための、必要な時間でもあるのです。
子供の頃、軽井沢の森で私はそんな「もう一つの世界」の入口を感じていました。
風の音、森の気配、名前のない花の群れ――
誰にも説明できないその感覚は、まさに“幻想”と“現実”の狭間にあるものだったのだと、今は思えます。
そして今、私は絵を描くことで、言葉で記すことで、
その境界を何度も行き来しているのかもしれません。
おわりに ― 母が残してくれた「心のまなざし」
母がいなくなって、どれほど月日が経っても、
私は母に見つめられていた感覚を、今も心の中に持っています。
それは、空を見上げる時の感覚にも似ています。
ひとりきりでも、どこかで見守られているような、
やさしくて静かな気配。
バスチアンがそうであるように、私も、心のどこかで”大切な人のまなざし”を感じながら、幻想の世界を旅しているのかもしれません。
次回予告
まだ読み始めたばかりの『はてしない物語』、
そして届いたばかりのもう一冊、レイ・ブラッドベリの『たんぽぽのお酒』。
本の旅路はまだ始まったばかりですが、
今後もこのふたつの物語と、自分の記憶や絵の世界がどんなふうに響きあっていくのか、少しずつ書いていけたらと思っています。
よろしければ、またお読みいただけたら嬉しいです。
制作の思いや日々の記録は、noteでも綴っています。
よろしければご覧になってください。

