はじめにー予告していた”本当の出会い”よりも先に
前回の投稿で、「次回は幻想世界の原点と、一冊の本との出会いについて」
と予告しました。
それは、最近読み始めたミヒャエル・エンデの『はてしない物語』や、これから読む予定のレイ・ブラッドベリの『たんぽぽのお酒』という作品のことです。
けれど、ページをめくりながら、ふと気づいたのです。
「私にとっての幻想世界の原点とは、もっとずっと前にあったのではないか」と。
今日はそのことについて書こうと思います。
目次
軽井沢で過ごした、ひとりきりの夏
小学校高学年になる頃まで、私は軽井沢に住む伯母の家で育ちました。
両親は会社勤めで忙しく、特に夏休みなど長期の休みには、軽井沢の観光シーズンもあって、伯母も家のことで手一杯。
私は、ひとりぼっちで過ごす時間が多くなってきました。
伯母の家には、私より年上のいとこがいましたが、彼はクラブ活動やボーイスカウトの活動で忙しく、私と遊ぶ時間はあまりありませんでした。
それでも私はひとりで、いくつもの「お気に入りの場所」を見つけては出かけて行きました。
宣教師村と、不思議な森の奥の話
よく歩いたのは、別荘地の奥や、宣教師村と呼ばれていた外国の方々が集まる静かな一角。
そこは今で言えば異国の空気が流れるような場所でした。
近くの森には、不思議な花が群生している場所がありました。
まるで夢の中にしか咲かないような、言葉にならない色やかたちの花たち。
名前もわからず、誰もいないその場所で、私は時間を忘れて佇んでいたのを覚えています。
「根っこ群」と呼ばれていた場所も忘れられません。
伐採された大木の根が、子供の背丈を超えるほど集められ、奥まで続くその場所は、まるで異世界の入り口のようでした。
誰もいない昼間でも、奥へ行くのが怖かった。
けれど、そこに惹かれる気持ちも確かにありました。
空はいつも、私の上にあった
そんなひとりきりの時間の中で、いつも私の上にあったのは「空」でした。
高く澄んだ青空もあれば、夏の夕暮れにはもくもくと積乱雲が立ち上がり、ごろごろという雷が「もう帰りなさい」と合図してくれているようにも思えました。
真っ赤に染まった夕焼け空を見上げたとき、私はふと、
「本当は、両親とずっと一緒にいたい」と思ってしまい、
その場に立ち尽くして涙したこともありました。
あの頃、空はいつも私を見てくれていた気がします。
ひとりきりでも、ぽつんと置いていかれているような気がしても、どこかで”見守られている”と、子供の私は感じていたのかもしれません。
この空の存在も、私にとっては確かに”幻想世界”の原点だったのだと、今は思います。
幻想世界の原点は、あの夏にあった
いま思えば、あのひとりだけの静かな夏の日々が、私にとって幻想世界の入り口だったのかもしれません。
誰にも説明できないような感覚。
森の中で息をひそめて、聞こえてくる音、風、木々たちのざわめき。
誰かに見られている気がするけれど、それが怖くはない、不思議な気配。
あれは、現実と空想がすれ違う一瞬だったでしょうか。
本の出会いは、あの頃の記憶を呼び覚ます
最近になって読み始めた『はてしない物語』の冒頭にも、そうした空気を感じました。
ページの中に広がる空想の世界が、私の中にずっとあった風景と重なって見えたのです。
そしてもう一冊、これから届く『たんぽぽのお酒』。
本を読み進めることで、今の自分の絵に描いている世界が、より深く、輪郭を持ちはじめるような予感がしています。
おわりにー”幻想世界”はあの頃の現実の中でそっと息づいていた
私はいま、自分の絵の中に”幻想”の風景を描いています。
けれどその幻想は、どこか遠くの異国の物語ではなく、実はあの軽井沢の森の中から、ずっと息を潜めていたのではないか。
そんな気がしています。
絵を描くことも、物語を読むことも、そしてこうして思い出を言葉にすることも。
全部が少しずつ、自分の中の「世界」を形にしていく旅のようです。
次回予告
次回は、あらためて『はてしない物語』や『たんぽぽのお酒』という本を通して、私の幻想世界とどんなふうに響合ったのかを、言葉にしてみたいと思います。
よろしければ、またお読みいただけたら嬉しいです。
制作の思いや日々の記録は、noteでも綴っています。
よろしければご覧になってください。

